2017年03月09日

私が『ラ・ラ・ランド』にノレれなかった理由(わけ)〜劇中の珍妙なジャズ観について

現在、全国の映画館で大ヒット上映中の『ラ・ラ・ランド』
『セッション』で注目されたデイミアン・チャゼル監督の最新作で、アカデミー賞本命と噂され、結果、監督賞を始め6冠を達成し、日本での公開も初週は興行収入1位を記録。2週目で『映画ドラえもん』に抜かれましたが、日本国内での邦画傾向を考えると、大ヒット作と考えても良いでしょう。

ただ、ご存知の方も多いと思いますが、この監督の作品は賛否両論が巻き起こる傾向にあります。
その中で顕著なのが、ジャズファンやジャズマニアに嫌われているということです。
日本国内の著名なジャズミュージシャン、菊地成孔氏が監督の前作の『セッション』について苦言を呈し、それに対し映画評論家、町山智浩氏が同作を擁護する発言をする等して起こった“『セッション』論争”を思い出す方もいるでしょう。

町山・菊地「セッション」論争まとめ(あるいは批評家に突如備わる予期せぬ権威)
私が最もフラットかなと感じた論争をまとめたサイト

3月6日、その菊地成孔氏が『ラ・ラ・ランド』について批判的な評論を展開しました。この評論に対して、Twitterを始めとして賛同する声や懐疑的な声が各地で上がっています。

さて、私は『ラ・ラ・ランド』を観て、正直なところ「良かった!」という率直な感想は抱けなかった人間だったのですが、そろそろ自分の感想が固まってきたので、一度書いてみたいと思います。何故、あれ程に多くの方が熱狂出来た同作にノレなかったのか。

私の場合は最初に結論を言ってしまうと、菊地成孔氏が評論の中で言及している要素の一つ、監督の音楽観でした。どうしても『ラ・ラ・ランド』の劇中の音楽に違和感を感じてしまう。「これ、ジャズじゃないんじゃあないの……?」と。
少し御幣がありました。正しくは、作品中で登場人物が持っている主張と、劇中のジャズの音楽が一致していない、ということ。私には、それが違和感の源泉の様に思えます。

ジャズというジャンルは、非常に分類が難しい音楽の一つです。どんな曲でもジャズ風に演奏すればジャズとも言えるし、何より他のジャンルの音楽との親和性も良いのでクラシック、ロック、ファンク、クラブミュージック等々の音楽に取り込まれ、または取り込み現在も発展している音楽です。



Lee Morganの名盤『The Rumproller』に収録されている一曲「Desert Moonlight」
聴けばわかる通り日本の童謡や歌謡曲として知られる「月の沙漠」のアレンジですが、
この様にポップチューンであってもジャズ風のコード進行を当て嵌めればジャズとして立派に成立します。



日本でお馴染みの「月の沙漠」の一例


だから、本作で流れる音楽もジャズには違いありません。これは間違いなくそうです。

ただ、主人公のセブ(セバスチャン)は1950〜60年代のハードバップといわれるジャンルのジャズを信奉しているキャラクターであることは、彼がミアにジャズの魅力を語るシーンや、ロックバンドに加入し成功するも複雑な心境であることから明らかです。

そして次の様な違和感が生れる。「セブが演奏しているジャズって、彼が愛しているジャズじゃないよね」という、ジャズファンなら恐らく誰もが抱く疑問です。
菊地成孔氏は評論で、「彼のプレイスタイルが一番近いのはシャンソンかセミクラシック」と述べていますが、その通りだと思います。だから映画の上映中、終始それが気になる。ノイズになる。

同様の問題は『セッション』でもありました。同作ではバディ・リッチという伝説のジャズドラマーを信奉する青年が、プロを目指すために鬼教師のレッスンに捲き込まれるというストーリーでしたが、彼の奏でるドラムはバディ・リッチのそれとは似ても似つかない。青年を暴力を交えた指導で追い詰める教師も、チャーリー・パーカーの偉大さを力説する割には、バーで演奏しているピアノは何だかクラシック風ジャズの様な印象でしかない。少なくともチャーリー・パーカーが活躍したビバップの音楽からは非常に離れた所のものです。

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伝説のドラマー、バディ・リッチ


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全然、バディ・リッチのドラミングに聴こえない『セッション』


『セッション』の劇中でフレッチャーが演奏するピアノ


チャーリー・パーカーの名盤『Jazz at Massey Hall』
聴くとすぐにフレッチャーのピアノのスタイルとは大違いなことが分かります。


それを普通の、所謂、ジャズに殆ど興味のない人に言ったところで、「そんなジャズ好事家の心理なんて知らないよ」と思うでしょう。これを読んで下さっている方も大部分はそうだと思います。

ただし、そういう理由でノレないジャズファンの気持ちもわかって欲しいのです。
ジャズという一般にはマイナーなジャンルの音楽がメインの映画が公開され、評価され、人気も得ている。本来ならばジャズファンとしてこれ程に嬉しいことはありません。
しかし、上記の通り、登場人物の語るジャズ観と、劇中のジャズの内容に齟齬があったり、その劇中のジャズ自体がそれ程大したことが無かったりする。
それが劇中で“素晴らしい音楽”として描かれ、観客が味わい、語る。その風景へのやるせなさ、不満は分かって頂きたいのです。
そして、そんな理解度でジャズを扱ったデイミアン・チャゼルという監督への不満も理解して頂きたいのです。


思えば、『セッション』論争で作品を擁護する立場に立った町山智浩氏は、以前に『20世紀少年〈第2章〉最後の希望』を酷評した際に、劇中のショットガンやリボルバー描写のディテールの甘さについて「ショットガンって何なのか分かってるのかね」、「ショットガンがどういう仕組みなのか何故調べないの!?」、「サーッと醒(さ)めちゃうんだよね」と仰っていました。
私はガンマニアではないので、あまり映画の劇中の銃器描写には拘りはないのですが、気になってしまう方の気持ちも分かります。
これって『セッション』や『ラ・ラ・ランド』では銃器がジャズに変わっているだけのことではないでしょうか?ジャズが好きで、気になる人にはやっぱり気になる部分だし、観ていてどうしても醒めてしまう。


町山智浩氏の名評論『20世紀少年〈第2章〉最後の希望』


試しに映画ファンの方にも分かり易いかなと思う例を挙げてみましょう。

時代は、今から数十年後。もうスピルバーグも、スコセッシも、ルーカスも亡くなっている時代です。そんな時代に、一本の映画が公開され、世間では大々的な評価を受けている。
その映画は、一人のスピルバーグを愛する若者が映画監督を目指す物語。彼は女性と付き合いながら、自主制作の映画を作り続けています。

ある日、彼女が「スピルバーグっていう昔の人の映画をちょっとだけ観たけど、つまんなかったわ。血だらけで、気持ち悪くって悪趣味よね」
勿論、彼は黙ってません。途中まで撮影したスピルバーグ作品へのオマージュ満載の映画を彼女に見せながら、スピルバーグの良さを力説する。
すると彼女は、彼のスピルバーグへの愛が伝わったのか「スピルバーグの映画って実は面白いのね!」と。
一時、流行り物の映画を撮ったりして、(なぜか無条件に大成功を収め)資金を溜めた彼は、スピルバーグ愛が詰まった映画を完成させ、観客から大喝采を浴びながら映画が終わります。

もし!この映画の作中作として写される“スピルバーグ愛の溢れる映画”に、スピルバーグらしいヒューマニズムや、血みどろ残酷描写や、宇宙にかけるロマンや夢、そんな要素が全く感じられない代物でしたら、映画ファンの皆さんはどう思われるでしょうか?
そして、そんな映画を作った監督が、世間では「スピルバーグを現代に生き返らせた作家だ」なんて評価を受けていたとしたら……。

これが今のジャズファンにとっての『セッション』や『ラ・ラ・ランド』が大々的に評価され、デイミアン・チャゼル監督が評価されることへの不満なのではないかと思います。少なくとも私にとっては。

chinpira.jpg

最後に言いたいのは、決して映画自体の出来を否定している訳ではないということ。そして、現在ジャズファンが感じているモヤモヤは、もしかしたら誰もが体験するかも知れないってことです。
ですから、一部の映画ファンが「ジャズ警察」「ジャズポリス」などと、『セッション』や『ラ・ラ・ランド』に苦言を呈す観客を揶揄する光景を私は嫌悪します。

Togetter:アカデミー6部門受賞の『ラ・ラ・ランド』はジャズ警察やミュージカル警察、オマージュ監視員の取り締まり対象か


「ジャズ警察は面倒くさい」とつくづくガッカリさせられるコメントを残す町山氏

色々な映画の見方があり、その見方にはキチンと理由がある、と言うことが少しでも伝われば幸いです。
posted by 民朗 at 08:19| 映画批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする