2016年12月21日

民朗の今年読んだ小説ベスト『ジャン・クリストフ』の紹介

『ジャン・クリストフ』は人生。


はてさて、今年読んだ小説で最高に素晴らしかった『ジャン・クリストフ』について紹介するのですが、出だしから変な感じで始めてしまった。ただ、これが本作を読んだ率直な感想でした。
本作について簡単に言いますと、主人公は楽聖・ベートーヴェンをモデルとしているジャン・クリストフという男です。彼が生れた瞬間(!)から、人生を終えるその瞬間までを丹念に描いた長大な大河小説です。尚、この小説によって作者であるロマン・ロランはノーベル文学賞を受賞しています。(フランス人としては3人目、小説家としては初の快挙)

本作は、ジャン・クリストフという男が、いかにしてこの世に生を受け、幼少期を過ごし、音楽に目覚め、青年期で恋におち恋に破れ、社会に反抗し反撃され、挫折し絶望を味わい、それでも戦い続け、音楽に一身を捧げ、そして死んでゆくまでを本当に緻密に描いています。正に一人の人生そのもの。読了したその瞬間、まるで長年親しんだ友人を亡くしてしまった様な喪失感すら感じてしまいました。
そしてその男、ジャン・クリストフの人生は、一言で言うと戦いそのもの。あらゆる絶望的状況にも負けず、あらゆることに戦いを挑み続ける姿には、あらゆる人が励まされること必死です。

また芸術を描いた作品としても非常に優れています。芸術を生み出すことの苦悩、芸術性を追求するのが是か・大衆性を求めるのが是かという永遠のテーマ、批評家からの攻撃に対する批判と親愛、ミューズの必要性、等々……。芸術を作る側・味わう側に関わらず、芸術に少しでも携わっていると思われる方には読んで絶対に損はしないと断言出来る程の深い思慮に富んでいます。

翻訳は岩波文庫版『レ・ミゼラブル』の翻訳など、名訳が多いことで知られる豊島与志雄さんです。
尚、私は小説を読んでいて覚えときたい名句をノートに書き溜めている、少し変な癖がある人間(単に忘れやすいだけ)なのですが、本作は今まで読んだ小説の中で、最も名句を抜き出した数が多い作品になりました。折角なので、下の方に全て書き写していますが、結構な分量になっているので、すべて読んで下さる奇特な方以外の為に、特にすげえな!と思った文章を少しだけ紹介します。気になったら是非書店でお買い求めください!





これは、主人公・クリストフが臨終の瞬間、人生を終えるその瞬間に、想像の中で神と対話している場面です。クリストフは己の人生を音楽に捧げた男でしたが、最後の瞬間までそれは変わらず、「俺が作った音楽が俺の存在そのものなのだから、肉体なんぞ滅びてしまえ!」と言い放ちます。音楽がクリストフにとって如何に唯一無二のものだったか分かります。

「お前はどちらを望むか、クリストフの記憶や名前などが永続してその作品が滅びることをか、あるいは、その作品が存続してその一身と名前とが跡方もなく滅びることをか?」
彼は躊躇せずに答えた。
「俺が滅びて俺の作品が存続することだ!それが俺には一挙両得なのだ。なぜなれば、もっともほんとうのものだけが、唯一のほんとうのものだけが、俺から残ることになるのだから。クリストフは死滅するがよい!」

以上 ロマン・ローラン〜「ジャン・クリストフ」(四)より


『ジャン・クリストフ』はフランス文学です。私は好きで良く読むのですが、フランス文学は何といっても”愛”に関する考察が非常に深いです。ここまで愛を追求した小説を生み出し続けているのはフランスの特徴と言っていいでしょう。本作も例に漏れず、色々な”愛”が作品の中で描かれますが、その殆どは悲しい結末を迎えます。作者は暗に「愛は永続しない、永遠の愛は死の中にしか存じない」と言っている様でさえあります。それを代表する様な名句がこちら。

世の中は悪くできてるものだと彼らは考えた。愛する者は愛されない。愛される者は少しも愛しない。愛し愛される者は、いつかは早晩、愛から引離される……。人はみずから苦しむ。人は他人を苦しませる。そして最も不幸なのは、かならずしもみずから苦しんでる者ではない。
以上 ロマン・ローラン〜「ジャン・クリストフ」(二)より


クリストフはベートーヴェンと同じく恋多き男なのですが、社会的身分の差、死別、互いの尊厳を尊重した結果、あらゆる理由で愛から引き離されるのですが、その恋人でアーダというあだっぽい(洒落ではない)女性が出てきます。彼女はクリストフの嫉妬心を煽るために、彼の弟と関係するのですが、クリストフはそれに激昂し、心の中で呪詛の言葉を投げつけます。それがこちら。正直、恋人に対するここまでの悪罵を読んだのは、尾崎紅葉の『金色夜叉』以来でした。

そして彼は嫌忌の念をもってみずから尋ねた、だが多くの者のうちにある汚さんとするこの欲求は――自分や他人のうちの純潔なものを汚さんとするこの欲求は、いったいなんであるのか?――表皮の全面にはもはや一点の清い場所も残っていない時初めて幸福を感じ、汚穢(おあい)の中にころがって快楽を味わう、それらの豚のような魂は!……
以上 ロマン・ローラン〜「ジャン・クリストフ」(一)より


クリストフは青年期からずっと音楽で生計を立てていきます。彼は性格が熾烈な男ですから、若い時は自分の音楽を理解しようとしない一般大衆・批評家をバカにして、攻撃していました。特に凄い場面が、自分の作品を聴衆に披露し、ブーイングを浴びせられたので、「君らにはこの程度がお似合いだ」と言ってその国の民謡を演奏したり……、今風に言うと炎上待ったなしの男です。そんな彼ですが、ある時に音楽について見つめ直す瞬間が訪れます。それがこちら。芸術性は勿論大事ですが、こういう気持ちを芸術家なら大事にしてほしいものです。

彼はもはや、単なる独自であり自分一人のための言葉である音楽を欲しなかったし、専門家ばかりを相手のむずかしい組み立てはなおさら欲しなかった。彼は音楽が一般の人々と交渉することを欲した。他人に結びつく芸術こそ、真に生きた芸術である。
(中略)
人類はときどき天才に向かって言ってやるがよい。
「汝の芸術のうちには、俺のためのものは何かあるか。もし何もないとすれば、消え失せてしまえ!」
以上 ロマン・ローラン〜「ジャン・クリストフ」(三)より


『ジャン・クリストフ』はフェミニズム文学としても十分成り立つ程、素晴らしい作品だと思います。その界隈で本作の名が上がらないことが実に不思議です。少し長くなりますが、一例を紹介しましょう。
クリストフはパリであるアルノー(これも洒落ではない)という名の夫婦と親しくなります。彼らはクリストフと真反対の様な、慎ましさを第一に静かに暮らしている小市民です。また、クリストフには運命で結びついた様な関係の親友・オリヴィエという男がいます。オリヴィエはジャックリーヌという女性と情熱的な出会いと共に結婚し、幸せな結婚生活を享受しますが、予想以上に経済的に豊かになったことや、いつまでも出逢った頃の情熱を絶やすまいとしたことで、逆に夫婦生活が上手くいかなくなり、遂にジャックリーヌは自分の生んだ赤ん坊とオリヴィエを残し、情夫の元に駆け落ちしてしまいます。
失意に沈むオリヴィエを親友のクリストフは何とか励まし、自分の夫と幼子を捨てたジャックリーヌをあしざまに非難するのですが、そこで慎ましく品行方正に生きているアルノー婦人がなんとジャックリーヌの肩を持つのです。その言葉がこちら。
これが1900年初頭に書かれたとはまるで信じられません。

あなたがた男の人は、自分のそばにいる女の心を、夢にも御存じありません。自己流に女を愛していらっしても、少しも女を理解しようとはされません。たやすく自分だけに満足していられるのです。あなたがたは私たち女のことを知っていると思い込んでいられますけれど……ああ、私たちにとっては、あなたがたから少しも愛せられていないということでなく、どんなふうに愛せられてるかということ、私たちをもっともよく愛してる人たちにとって私たちがなんであるかということ、それを見るのが時としてどんなに苦しいか、あなたがたに知っていただけさえしましたら!クリストフさん、時によりますと、『愛してくださいますな、愛してくださいますな、こんなふうに愛してくださるよりも、他のことのほうがどんなことでもまだよろしいのです、』という叫び声を押えるためには、爪が手のひらにくい入るほど拳を握りしめて我慢しなければならないこともあります……。

よく一致してる家庭のうちにも、女……クリストフさん、あなたが尊重していられるような女たちのうちにも、あるときには、あなたがおっしゃるような心の迷いばかりではなく、真実な堪えがたい苦しみがあるものです。その苦しみは、人を馬鹿げだ行ないに導いて、一つの生活を、二つの生活をも、破壊してしまうものです。あまりにきびしい判断をしてはいけません。人はもっとも深く愛し合ってるときでさえ、たがいに苦しめ合うものなんです。」
「それでは、各自別々に生きなければならないのでしょうか。」
「そんなことは、私たち女にとってはなおさらいけないのです。一人で暮らして男のように(そしてたいていは男にたいして)戦わなければならない女の生活は、そういう思想に適していないこの社会では、そして大部分そういう思想に反対してるこの社会では、恐ろしいことなんです……。」

「善良な者にならなければいけません。」
「そう、善良な者になることです。利己心の胸当てを取り去り、よく呼吸し、人生を、光明を、自分の見すぼらしい仕事を、自分が根をおろしてる一隅の土地を、愛することです!あたかも狭い所にある樹木が太陽のほうへ伸び上ってゆくように、遠い地平に得られないものを、深さや高さにおいて得ようと努力することです!」
「そうですよ。そしてまず第一に、たがいに愛し合うことです。男は女の兄弟であって、女の餌食ではないということや、女は男の餌食であるべきでないということを、男がもっとよく感じようとさえしますならば!両方でたがいに自分の慢りを投げ捨てて、自分のことをもっと少なく考え相手のことをもっと多く考えようとさえしますならば!……私たち女は弱い者なんです。私たちを助けてくださらなければいけません。つまづいた者に向かって、『俺はもうお前のことなんか知らない、』などと言わないで、『しっかりおしよ、いっしょに抜け出そうよ、』と言っておやりなさらなければいけません。」
以上 ロマン・ローラン〜「ジャン・クリストフ」(三)より


いかがだったでしょうか?
少しでも興味が湧いた方は以下も是非ご堪能下さいね。




吾人に光と空気とを与えよ!……社会の最大不公平の一は、実に光と空気との分前のそれである。人類は幾多の世紀を閲(けみ)するうちに、いつしかピラミッド形に積まれてしまった。そして高きにある者と低きにある者とを問わず、このピラミッドの内部に置かれた者こそ災である。
そこにはもはや、永久の暗黒と窒息とがあるのみである。
ロマン・ローラン〜「ジャン・クリストフ」序文より

彼はまさしく凡庸な役者と同じ魂をもっていた。凡庸な役者は、台詞の意味には気もかけず、ただ台詞回しにばかり注意し、聴衆に及ぼすその効果を、得々として細心に見守っているものである。

彼は実になんでもない男であった。そしてかかるなんでもない男こそ、人生においては恐るべきものである。彼らは空中に放置された重体のように、ただ下に落ちようとする。どうしても落ちざるをえない。そして自分とともにいるものをみな、いっしょに引きずって落ちてゆく。

彼にはむしろ死ぬ方が望ましかった!――他人の悪意を初めて見出した子供の苦しみ、それ以上に残忍な苦しみはない。子供は世界じゅうの者から迫害されているように考える、そして自分を支持してくれるものは何ももたない。もう何もない、もう何もないのだ!

祖父のある言葉が彼に深い印象を与えていた。祖父は孫が泣くのを見て、重々しい調子で言ってきかした、人間の感謝と栄光とのために与えられている最高最美の芸術のためになら、多少の苦しみは忍ぶに甲斐のあることだと。

「音楽家の職業がどんなにりっぱなものであるかわかったかい。あんなりっぱな光景を創り出すのは、この上もなく名誉なことではないか。それはこの世で神様になることだ。」

「それだ。お前は書くために書いたんだ。偉い音楽家になるために、人からほめられたいために、書いたんだ。お前は高慢だった、お前は嘘をついた。それで罰を受けたんだ……そこだ!音楽では、高慢になって嘘をつけば、いつでも罰を受ける。音楽が謙遜で誠実であることを望む。

かくて彼は日々の波を分けておのれの小舟を進めながら、側目(わきめ)もふらず、じっと舵を握りしめ、目的の方へ眼を見据えている。饒舌な楽員らの中に交って管弦楽団の席にいる時にも、家の者にとり巻かれて食卓についている時にも、高貴な愚人たちの慰みのために楽曲のいかんに構わず演奏しながら宮邸にいる時にも、彼が生きているのは、このおぼつかなき未来の中にである、一原子のために永久に崩壊されるやもしれない――それは構うところではない――この未来の中に、そこにこそ彼は生きているのである。

私にはあなたの令嬢を愛するの権利がないことを、あなたはきびしく私に覚らしてくださいました。しかし世に何物も、愛する者を愛する私の心を、妨げることはできません。私はあなたと同じ階級には属していないとしましても、あなたと同じく貴族であります。人間を貴(とうと)くするものは心である。私は伯爵ではないにしても、多くの伯爵以上の名誉を、おそらく自分のうちにもっています。従僕にしろ伯爵にしろ、私を侮辱する時には、私はそれを軽蔑します。魂の貴さを具えないなら、たとい貴族だと自称しても、私はそれを泥土のように軽蔑します。

「往け、往け、決して休むことなく。」
「しかし私はどこへ往くのだろう、神よ。何をしても、どこへ往っても、終りは常に同じではないか、終局がそこにあるだけではないか。」
「死すべき汝は死へ往け!苦しむべき汝には苦しみに往け!人は幸福ならんがために生きてはいない。予が掟を履行せんがために生きているのだ。苦しめ、死ね。しかし汝のなるべきものになれ――、一個の人間に。」

多くの人は、二十歳か三十歳で死ぬものである。その年齢を過ぎると、もはや自分自身の反映にすぎなくなる。彼らの残りの生涯は、自己真似をすることのうちに過ぎてゆき、昔生存していたころに言い為し考えあるいは愛したところのことを、日ごとにますます機械的な渋滞的なやり方でくり返してゆくことのうちに、流れ去ってゆくのである。

理知と聖職者の肩書とによって自分より向うがすぐれていることは彼もよく是認していた。
しかし一度議論する場合には、もはや優劣も肩書も年齢も名前もないはずである。ただ真理だけが肝心であって、真理の前には万人が平等である。

「ああ、黙ってるのはほんとにいいことだ!」と彼は身体を伸ばしながら言った。
「そしてしゃべるのはほんとに無駄なことですわ!」と彼女は言った。
「そうです、」とクリストフは言った、「おたがいによくわかり合えるんだから。」

世の中は悪くできてるものだと彼らは考えた。愛する者は愛されない。愛される者は少しも愛しない。愛し愛される者は、いつかは早晩、愛から引離される……。人はみずから苦しむ。人は他人を苦しませる。そして最も不幸なのは、かならずしもみずから苦しんでる者ではない。

偉人や偉大な思想などを、おのれと同じ水準に引下げようと熱中する批評家、恋人を卑しくすることを喜ぶ娘、この二つは同種類の有害な二匹の畜生である。――ただ後者の方がいくらかかわいい。

「安心おし、お前は自由だよ。いつでも僕と別れたい時には別れるがいいさ。ただ、それは一時の別れじゃなくて、永久のおさらばだ。」
「でも、やはりあんたを愛しているとしたら、この私が。」
「愛し合ってる時には、たがいに一身をささげ合うものなんだ。」

愛は不断の信仰の行為である。神が存在しようとすまいと、そんなことはほとんど構わない。信ずるから信ずるのだ。愛するから愛するのだ。多くの理由を要しない!……

そして彼は嫌忌の念をもってみずから尋ねた、だが多くの者のうちにある汚さんとするこの欲求は――自分や他人のうちの純潔なものを汚さんとするこの欲求は、いったいなんであるのか?――表皮の全面にはもはや一点の清い場所も残っていない時初めて幸福を感じ、汚穢(おあい)の中にころがって快楽を味わう、それらの豚のような魂は!……

「そんなことはこんどきりじゃないよ。人は望むとおりのことができるものではない。望む、また生きる、それは別々だ。くよくよするもんじゃない。肝腎なことは、ねえ、望んだり生きたりするのに飽きないことだ。その他のことは私たちの知ったことじゃない。」
以上 ロマン・ローラン〜「ジャン・クリストフ」(一)より

笑いを招くの危険を冒さなければ、偉大なものは書けない。事物の底に徹するためには、世間体や、礼儀や、遠慮や人の心を窒息せしむる社会的虚飾などを、あえて蔑視しなければいけない。もしだれの気にも逆らうまいと欲するならば、生涯の間、凡庸者どもが同化し得るような凡庸な真実だけを、凡庸者どもに与えることで満足するがいい。人生の此方にとどまっているがいい。しかしそういう配慮を足下に踏みにじる時に初めて、人は偉大となるのである。

「生者よりいっそうよく生きている死者もあるよ。」
「いや、違う。死者よりいっそうよく死んでいる生者があると言った方が、より真実に近い。」

――これらの裕福な青年らは皆、もとより無政府主義者であった。すべてを所有してる時に社会を否定するのは、最上の贅沢である。なぜなら、かくして社会に負うところのものを免れるかれである。盗人が通行人を劫掠(きょうりゃく)したあとに、その通行人へこう言うのと同じである、「まだここで何をぐずついてるんだ!行っちまえ!もう貴様に用はない。」

人の求め得る幸福には限度がある。それ以上にたいしてはだれも要求の権利を有しない。過大の要求をなすことが許されるのは、自分自身にたいしてであって、他人にたいしてではない。

しかし小都市の怨恨は執拗なものである――なんらの目的もないだけになおさら執拗である。おのれの欲するところを知ってる正しい恨みは、目的を達成すれば鎮まってしまう。しかし倦怠のために悪を行う者らは、決して武器を放さない。常に退屈しているからである。

彼に必要なのは愛することだった。心の中が決してまっくらにならないこと、それが必要だった。

クリストフ
俺はなんらの憎悪をもいだいてはしない。最も悪い奴らのことを考える時でさえ、奴らもやはり人間であって、われわれと同じく苦しんでおり、いつかは死んでゆくのだということを、俺はよく知っている。しかし奴らと闘わなければならないのだ。

闘うことは、それがたとい善をなさんがためのものにせよ、悪をなすことなのだ。生きた一人の人間にでも苦痛を与えることがあるならば、その苦痛は、「芸術」――もしくは「人類」、などという美(うる)わしい偶像になさんとする善によって、償い得るものだろうか?
クリストフ
お前がそういうふうに考えるならば、芸術を見捨てるがいい、そして俺をも見捨てるがいい。

彼らは新しい社会を信ずるようなふりをしていた。おそらくかつて信じたことがあったのだろう。しかし実際は、死にかかってる社会の遺物によって生活しようとしか考えていなかった。近視的な便宜主義が享楽的な虚無主義に仕えていた。未来の大利害は現在の利己主義にささげられていた。

それは道徳の事柄ではなかった。本能と矜持との事柄だった。彼女は貴族的な自尊心をもっていた。民衆とは平民のことであると信ずるのは、愚かの至りである。中流階級にも賤民の魂があると同じく、民衆にも貴族がある。他人よりも純潔な本能を、おそらくは血潮を、もっていて、それをみずから知り、自分の真価を意識し、頽廃しないという矜持をもっている人こそ、貴族というべきである。
以上 ロマン・ローラン〜「ジャン・クリストフ」(二)より

音楽は近代の大なる害毒物の一つである。暖房のようなまたは頼りない秋のようなその暖かい倦怠は、人の官能をいらだたせ意志を死滅させる。しかしそれは、アントアネットのように喜びのない過度の働きを強いられてる魂にとっては、一つの休息となるのであった。

彼らは考えた、「家に同居し家族の一員となり、子供らの教育を引き受けてる若い娘の、内心の生活を知ることは、自分たちの義務である。自分たちは責任がある。」――(これは、多くの主婦たちがその召使どもについて言うところと同じである。その「責任」というのは、不幸な召使どもから一つの労苦や一つの不快をも除いてやろうとはしないで、ただ彼らにあらゆる種類の楽しみを禁じようとばかりするのである。)

何事も別離よりはましである。困窮も、死も、ただいっしょにいさえすれば……。

いかに美しいもの、愛する者の眼が共に見てくれないときには、なんの役に立とうぞ。美もまた喜びでさえも、それをもう一つの心の中に味わうのでなければ、何になろうぞ。

信愛な心の限りない完全な親和を、ただ一度でも知るの幸福を得た者は、もっとも聖なる喜びを――その後一生の間不幸だと感ずるような喜びを――知ったものと言うべきである。
楽しかりし時を悲惨のうちにて思い出すほど、世に大なる苦痛はあらず……。
弱いやさしい心の人にとってのもっともつらい不幸は、一度もっとも大なる幸福を味わってきたということである。

道徳を喋々(ちょうちょう)するのは、神経衰弱者ばかりだ。そして道徳のあらゆる条件中第一のものは、神経衰弱でないということだ。世間の衒学者どもは、言わば自分は足がたたないくせに人に歩くことを教えようとしている。」

愛せらる者のほうには、あらゆる権利がある。もはや相手を愛さないという権利さえある。人はそれを彼に恨むことはできない。彼から見捨てられて、自分がほとんど彼の愛を受くるに足りないということを、みずから恨むだけのことである。それこそ致命的な苦しみである。

「もし芸術に国境があるとすれば、その国境は人種の間の境界というよりも、階級の間の境界というべきだ。

「だって僕は自分の妻が自分以外のものに所有されることを望みません。」
「ほう、あなたは細君の思想にまで嫉妬するんですか。じゃああの少佐よりもあなたのほうがいっそう利己的だ。」
「それは勝手な理屈です。たとえばあなたは音楽を愛しない女をもらえますか。」
「もらおうとしたこともありますよ。」
「思想が違っててどうしていっしょに暮らせるでしょうか。」
「そんなことをくよくよ考えるには及ばないでしょう。なあに、愛するときには思想なんかどうだって構わない。僕の愛する女が僕と同じく音楽を愛してくれたって、なんの足しになるものですか。僕にとってはその女が音楽なんです。

君たちの無情無感がそれを殺すのだ。君たちの元気が消滅するにつれ、君たちの思想が諦めにはいるにつれ、君たちの誠意が働きを止めるにつれ、君たちの血が無駄に一滴ずつ涸れてゆくにつれて、祖国は死んでゆくのだ……。奮起したまえ。生きなくてはいけない。もしくは、死ななければならないとすれば、立ちながら死ぬべきである。」

――そしてある晩、暗い室の隅に縮こまってる彼女のもとまで、遠い音楽が壁や締め切った窓越しに響いてきたとき、彼女はぞっと身震いを感じて、涙の泉が新たにほどばしってきた。彼女は窓を開いた。それから涙を流しながら耳を傾けた。音楽は雨に似ていて、彼女の枯渇した心に一滴ずつしみ込み、その心をよみがえらせた。彼女はふたたび、空を星を夏の夜をながめた。生にたいする興味が、人間的な同感が、まだ蒼白い曙光のように現れてくる心地がした。そしてその夜、幾月目かに初めて、娘の面影が彼女の夢想のうちに現れてきた。――われわれを故人に近づけるもっとも確かな道は、故人と同様に死ぬことにあるのではなくて、生きることにあるのである。故人はわれわれの生によって生き上がり、われわれの死によって死んでゆく。

作家が一つの名作によって自分を認めさせるときには、公衆は第二の名作を作ることを彼に妨げようとする……。才能ある者も考え込んでいるうちには、世間の喧騒のなかに心ならずも引き込まれる。なぜかなれば、世間の人々は各自に、その才能の一片を自分のものになし得ると考えてるからである。

彼はもはや、単なる独自であり自分一人のための言葉である音楽を欲しなかったし、専門家ばかりを相手のむずかしい組み立てはなおさら欲しなかった。彼は音楽が一般の人々と交渉することを欲した。他人に結びつく芸術こそ、真に生きた芸術である。
(中略)
人類はときどき天才に向かって言ってやるがよい。
「汝の芸術のうちには、俺のためのものは何かあるか。もし何もないとすれば、消え失せてしまえ!」

悲しくも、人はたちまちにして幸福に馴れ親しむ。利己的な幸福が生の唯一の目的となるときには、生はただちに目的なきものとなる。幸福は一つの習慣となり、一つの中毒となって、人はもはやそれがなくては済まされなくなる。しかもそれがなくても済ませることが必要なのだ……。幸福は世界の律動(リズム)の一瞬間であり、生の振子が往来する両極の一つである。その振子を止めんとするには、それを破壊しなければならないだろう……。

馴染み深い古い品物の代わりに、親しみのない道具や壁紙を取り付けた。もはやどこにも思い出をこめる場所がなかった。共同生活の初めのころのことは、すっかり頭から追い払われた……。過去の恋愛に二人を結び付ける絆が断たれるのは、いっしょになってる二人にとっては大なる不幸である。その過去の面影は、初めの情愛のあとに必然起こってくる落胆や敵視にたいして、二人を保護してくれるものなのである……。

職業を分銅とせず強い実生活を支持としない芸術、おのが肉体のなかに日々の務めの針を感じない芸術、パンを得る必要のない芸術は、そのもっともよき力と現実性とを失うものである。それはもはや贅沢の花にすぎない。

そういう人たちはたいてい金があり、りっぱな子供があり、りっぱな健康を有し、聡明であって美しい事柄を感ずることができ、活動し善を行ない自他の生活を豊富ならしむべき、あらゆる方法を具有している。それなのに彼らは、たがいに愛していないとか、ある者を愛しているとか、ある者を愛していないとか言って、終始愚痴ばかりこぼしている――自分自身のこと、感情上のあるいは肉欲上の関係、幸福にたいする彼らのいわゆる権利、矛盾した利己心、などにたえず頭を向け、やたらに論議ばかり試み、大なる恋愛や大なる苦悶の狂言を演じ、ついにはその狂言をほんとうに信じてしまう……。

「でも私のせいじゃありませんよ。世間の人からいろんな目に会わされたので、そのために疑り深くなったのです。」
「僕もたびたび騙されたんです。」とクリストフは言った。「しかし僕はまだやはり人を信用しています。」
「そうでしょう。あなたは生まれつきの馬鹿正直に違いないんですもの。」

「人生は僕に何事も教えてはくれなかった。いくら知ったとて……いくら知ったとて、甲斐はない……。僕はいつまでも同じような幻ばかりをいだいている。」
限りなく愛しそして信ずることは、なんといいことだろう!愛に接するすべてのものは死から免れる。

あなたがた男の人は、自分のそばにいる女の心を、夢にも御存じありません。自己流に女を愛していらっしても、少しも女を理解しようとはされません。たやすく自分だけに満足していられるのです。あなたがたは私たち女のことを知っていると思い込んでいられますけれど……ああ、私たちにとっては、あなたがたから少しも愛せられていないということでなく、どんなふうに愛せられてるかということ、私たちをもっともよく愛してる人たちにとって私たちがなんであるかということ、それを見るのが時としてどんなに苦しいか、あなたがたに知っていただけさえしましたら!クリストフさん、時によりますと、『愛してくださいますな、愛してくださいますな、こんなふうに愛してくださるよりも、他のことのほうがどんなことでもまだよろしいのです、』という叫び声を押えるためには、爪が手のひらにくい入るほど拳を握りしめて我慢しなければならないこともあります……。

よく一致してる家庭のうちにも、女……クリストフさん、あなたが尊重していられるような女たちのうちにも、あるときには、あなたがおっしゃるような心の迷いばかりではなく、真実な堪えがたい苦しみがあるものです。その苦しみは、人を馬鹿げだ行ないに導いて、一つの生活を、二つの生活をも、破壊してしまうものです。あまりにきびしい判断をしてはいけません。人はもっとも深く愛し合ってるときでさえ、たがいに苦しめ合うものなんです。」
「それでは、各自別々に生きなければならないのでしょうか。」
「そんなことは、私たち女にとってはなおさらいけないのです。一人で暮らして男のように(そしてたいていは男にたいして)戦わなければならない女の生活は、そういう思想に適していないこの社会では、そして大部分そういう思想に反対してるこの社会では、恐ろしいことなんです……。」

「善良な者にならなければいけません。」
「そう、善良な者になることです。利己心の胸当てを取り去り、よく呼吸し、人生を、光明を、自分の見すぼらしい仕事を、自分が根をおろしてる一隅の土地を、愛することです!あたかも狭い所にある樹木が太陽のほうへ伸び上ってゆくように、遠い地平に得られないものを、深さや高さにおいて得ようと努力することです!」
「そうですよ。そしてまず第一に、たがいに愛し合うことです。男は女の兄弟であって、女の餌食ではないということや、女は男の餌食であるべきでないということを、男がもっとよく感じようとさえしますならば!両方でたがいに自分の慢りを投げ捨てて、自分のことをもっと少なく考え相手のことをもっと多く考えようとさえしますならば!……私たち女は弱い者なんです。私たちを助けてくださらなければいけません。つまづいた者に向かって、『俺はもうお前のことなんか知らない、』などと言わないで、『しっかりおしよ、いっしょに抜け出そうよ、』と言っておやりなさらなければいけません。」

かくのごとく、不幸は往々にして愛し合ってる心をもたがいに離れさせるものである。唐箕(とうみ)が穀粒を選り分くるように、不幸は生きんと欲する者を一方に置き、死せんと欲する者を他方に置く。愛よりもさらに強い恐るべき生の法則である。
以上 ロマン・ローラン〜「ジャン・クリストフ」(三)より

すべて自分のなすことに、すべて自分の苦しむことに、すべて自分の愛することに、すべて自分の憎むことに、無制限に没頭する者こそ、驚異に価する人であり、この世で出会い得るもっとも偉大な人である。熱情こそは天才のごときものであり、一つの奇跡である。

「ふーん、僕はいつもわからないのが癖だ。」とクリストフは言った。「恋愛を論ずる者は不条理を論じてるのだ。」

人生は苦悶と残忍との無限な総和の上に立っていることを、彼はだれよりもよく知っていた。人は他を苦しめずには生きてゆけない。眼をつぶったり言葉でごまかしたりすべきではない。人生を捨つべきだと結論したり子供のようにめそめそ泣いたりすべきではない。否、当分他に生きる方法がないとするならば、生きんがためには殺してさしつかえない。しかしながら、殺さんがために殺す者は悪人である。無意識的ではあるが、でも悪人たるに変わりはない。人間の不断の努力は、苦しみと残虐との総和を減ぜんとすることにあらねばならぬ。それが人間の第一の務めである。

人がしばしば見てとるとおり、愛においては弱い者のほうがより多く与える。それは強い者のほうが少なく愛するからではない。強いほどますます多く取ることを要するからである。

いっしょに年を取ってゆく。自分の伴侶のうちに老年の衰えまでも愛する。そしてこう考える。「眼のそばの、鼻の上の、お前のその小さな皺を、私はよく知っている。それが刻まれるのを私は見てきた。いつそれができたかを私は知っている。お前のその憐れな灰色の髪は、私とともに日に日に色を失ってきた、そして悲しいかな、多少は私のせいで色を失ってきたのだ!お前の貴いその顔は、私ども二人を焦燥さした疲労と苦心とのために、ふくらんで赤くなったのである。私の魂よ、私とともに苦しみ年老いてきたお前を、私はどんなにかいっそう愛してることだろう!お前の皺の一つ一つは、私にとっては過去が奏でる一つの音楽である。」

……人から用捨される芸術家たちこそ気の毒だ。彼らは中途に止まって無精らしくすわりこむ。ふたたび立ち上がってみても、足がしびれて歩けないだろう。ためになる敵こそありがたいものだ。僕は生涯のうちで、害になる友からよりも彼らからいっそう多くの益を受けてきた。」

苦悶もまた一つの力となる――統御される一つの力となる――という点まで彼は達していた。彼はもはや苦悶に所有されずに、かえって苦悶を所有していた。そのあばれ回って籠の格子を揺することはあっても、彼はそれを籠から外には出さなかった。

「それでは、君は僕の音楽に満足してるのですか。君は僕と同じ方法で、自分の愛や憎悪を表現するつもりですか。」
「そうです。」
「そんならもう黙り込んでしまうがいいでしょう。君には何も言うべきものがないはずです。」

「お前はどちらを望むか、クリストフの記憶や名前などが永続してその作品が滅びることをか、あるいは、その作品が存続してその一身と名前とが跡方もなく滅びることをか?」
彼は躊躇せずに答えた。
「俺が滅びて俺の作品が存続することだ!それが俺には一挙両得なのだ。なぜなれば、もっともほんとうのものだけが、唯一のほんとうのものだけが、俺から残ることになるのだから。クリストフは死滅するがよい!」
以上 ロマン・ローラン〜「ジャン・クリストフ」(四)より
posted by 民朗 at 18:56| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする